麺
三輪素麺
Miwa Somen
大神神社の社伝によれば、宮司の子が三輪の地と三輪山の清流が小麦栽培に適することを見出し、小麦粉から素麺を作らせたのが始まりとされる。江戸時代、伊勢参りの旅人によって播州・小豆島・島原へと製法が広まったと伝わる。
- 発祥: 奈良県桜井市
- 東京から西へ約380km
奈良県桜井市
系譜
何でできているか
極細に手延べされた白い麺。三輪素麺は他産地に比べても特に細く仕上げることを誇りとし、しっかりしたコシと、つるりとした滑らかな喉ごしが持ち味になっている。茹でるとわずかに透き通り、噛むと歯切れよく切れる細さがあり、めんつゆの風味を邪魔しない軽さも特徴の一つ。冷やして食べると細さゆえの涼やかさが際立つ。
どう作るのか
小麦粉と塩水を練った生地に食用油を薄くまとわせながら、二本の棒にかけて糸のように細く引き延ばし、天日と風にさらして乾燥させる手延べ製法で作る。冬場の乾いた寒風にさらして数か月熟成させたものは「古物(ひね)」と呼ばれ、新麺よりいっそう強いコシと深い味わいが出るとされ、夏の食卓で好んで選ばれる。延ばす回数の多さが、細さとコシを両立させる鍵になっている。
なぜこの形になったのか
大神神社の社伝によれば、宮司の子が三輪の地と三輪山の清流が小麦栽培に適することを見出し、小麦粉から素麺を作らせたのが始まりと伝わる。奈良盆地特有の乾いた冬の風は、麺を屋外で長く延ばして乾かす手延べ製法に向いた気候条件として働いたと読める。江戸期には伊勢参りの旅人を介し、播州や小豆島、島原へと製法が伝わったとも伝わり、各地の素麺の起点として語られることが多い。
食べに行く前に
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この土地の食材と料理
派生
- 島原手延そうめん寛永14年(1637年)の島原の乱で人口が激減した後、幕府の移民政策で移り住んだ人々によってそうめん作りが伝えられたとされる。出身地は小豆島説・三輪説など諸説あり断定できる史料はまだ見つかっていないが、文化年間(1804〜1818年頃)に産地としての形が整った。
- 播州手延べそうめん太子町の斑鳩寺に伝わる文書には応永25年(1418年)の条に「サウメン」の記述があり、兵庫県内で最も古いそうめんの記録とされる。江戸時代の安永年間には龍野藩の許可業種として奨励され、播州平野の小麦・揖保川の水・赤穂の塩が産地としての土台になった。
- 半田そうめん藩政時代、川船の船頭たちが三輪(奈良県)から淡路・鳴門を経て半田にそうめんの技法を伝えたとされる。自分たちで手早く作れるよう手間を省いたことが、一般的なそうめんより太くコシの強い麺になった理由と伝わる。剣山系から吹き下ろす乾いた風と吉野川の澄んだ水が、麺作りに適した環境を作っている。
- 小豆島そうめん約400年前、小豆島池田村の人が三輪(奈良県)に立ち寄った際にそうめんの製法を学び持ち帰ったのが始まりとされる。冬の農閑期にでき、家族の労働だけで営めることが導入の動機になったと伝わる。海運の要衝だった島には讃岐の小麦や瀬戸内の塩が集まり、ごま油の産地でもあったことが適地の条件となった。
同じ奈良県
- あまごの甘露煮渓流の女王とも呼ばれるアマゴを素焼きにし、ほうじ茶で煮てから醤油とみりんで甘辛く煮含める吉野郡・宇陀郡の料理。クセのない川魚とされ、古くから家庭で作られてきたおふくろの味という。
- 飛鳥鍋鶏肉と季節の野菜を牛乳とだし汁で煮込む明日香村の鍋。飛鳥時代に唐からもたらされた乳製品が宮中に伝わり、後に飼っていた鶏の肉を牛乳で煮た精進料理が起源とされ、昭和初期に今の形になったという。
- 鮎寿司吉野川流域で作られる、アユを姿のまま酢飯にのせて押した寿司。川の石の藻を食べて育つアユは「香魚」と呼ばれ、歌舞伎の演目に登場する鮨屋が奈良に実在したことから知られるようになったとされる。
- でんがら餡を包んだ餅を朴の葉でくるんで蒸す東吉野村・川上村の菓子。男の子の立身出世や無事な成長を願う端午の節句に作られ、一本の枝から出た葉ひとつひとつに餅を包むため、房のような形になるという。
- エイの煮こごり赤エイを醤油と砂糖で甘辛く煮つけた奈良の料理。ゼラチン質が煮汁に溶け出し、冷めるとゼリー状に固まることから「煮こごり」と呼ばれる。春日大社若宮のおん祭では、のっぺいと共に食べられてきたとされる。
- 半夏生餅/小麦餅/さなぶり餅夏至から十一日目の「半夏生」の頃、つぶし小麦ともち米をついて作る奈良盆地の餅。小麦の収穫と田植えが一段落する節目に作られ、田の神を送る早苗饗の行事に合わせて食べることから「さなぶり餅」とも呼ばれる。